田があれば田に悩み 

カテゴリ:み教え

久々に宗教の話です。

大無量寿経と言うお経の中に現代語訳でこんな一節があります

「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む

田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む」

人間そんなもんで どこまで行っても幸せになれないものです。


ただ 不幸せか?と聞かれるとそうでもなさそうで

今の幸福度50%と言った具合の人が多いでしょうね。


人間は科学や文化の力でも解決の出来ないどうしようもない状況になった時

人間以上のパワーを持ったものに頼んでいき

問題が解決されたり 解決されたように感じる

これを宗教と呼ぶと考えられます。


たとえば不治の病になったり 子供が家出して行方不明になったり

そんな時 神仏に頼んでいくものです。

ただ 今の世の中 それほどまで困る事はない

そして科学の発達が 人間を超えたパワーを持つものを信じさせなくなっています。


したがって無宗教の人や宗教離れが進んできているわけです。


「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む

田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む」 

どこまでも幸せになれない人間を救ってくれるのが仏教

仏教の目的そのものが抜苦与楽 苦を抜き 楽を与えるのですからね。


諸行無常と諸法無我 

カテゴリ:み教え

いよいよ今年も終わりに近づいてきましたね。

この頃になるといつも思い出すのが 一休さんが読んだ句です。

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」


前に一切皆苦と言う事で書いた 四法印の続きです。

諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静 これが四法印です。

仏教の旗印 他の宗教と見分ける基準と言ってもよいでしょう。


諸行無常(しょぎょうむじょう) 

諸々(もろもろ)の行いは常(つね)でないと言う事です。

この世にあるすべての物は変化していく 永遠不滅の物はありません

最近のビルは鉄筋コンクリートで出来ていますが あの固いコンクリートも

100年すれば風化が進み始めるそうです。

お釈迦様は この世の物は刹那(一瞬)に変化していくと考えられました。

我々の肉体も7年もすれば全部の細胞が入れ替わるそうで 刻々と変化しています。


それがどうしたん?・・・ 次の諸法無我に導かれます


諸法無我(しょほうむが)

法というのはこの世にある全ての物の事 無我はわれがないと言う事

そんなはずないですよね

私は今ここに存在してる ここにいる私がないと言うのはどういう事ですか?

我と言うのは 永遠不滅 不変のものを我と呼びます。

私は生まれてもうすぐ60年になろうとしています。

背の高さも顔立ちも変化し続けてきました。

細胞の集合体である私です。細胞が変化すれば形も変化します。

でも私が有って この私が変化してきたと誰もが考えますが

お釈迦様は変化しない 私(我)は存在しないと言われたわけです。


たとえば今パソコンを置いてる机 100年経っても同じ姿でしょうか?

机の足を外せば 机ではなくなります。

天板と足の組み合わせで出来ている 単体では机にならない訳です。


毎年 歳をとって行く自分 その中にある変化しない魂のような私(我)

これが存在しない事に気づいていくことで我執がとれていくんですね。


だけど やっぱり理解できないんですよね

私があって この私が変化していると考えてしまう。


浄土真宗では 理解できない私に他力(仏さまからのお働き)によって

ひとりでに気づかされて行くんですね。

仏教の中では一番簡単な(易行道)他力の教えが私には合ってるような気がします。

一切皆苦と言う事 

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時々降る雨でのびのびになってる菜の花の種まき

焦っても天気ばかりはしょうがない

こんな時 ほんとの百姓はどう対応するのでしょうかね


ところで今日は仏教の話し

四法印と言うのがあります。

法印と言うのは 仏教の旗印 

他の宗教とはっきりと違う所を表したものです。


諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静 の四つです。


この中で一切皆苦の事を少し書いてみます。

一切(いっさい)と言うのは 全てと言う意味で

皆苦(かいく)は みな くるしみ と言う意味です。

両方合わせると この世はすべて苦しみであると言うのですね。

そうかな~ 楽しい事もあるし 幸せな時もあるでしょう

ここで言う苦と言うのは 永遠に続く幸せはないと言う事です。


もともと 苦とは インドの言葉でドゥファーと言うのですが

思い通りにならない状態の事を 苦 と考えてよいでしょう。


子供が言う事を聞かない 嫁さんが思った通り動いてくれない

話しても思い通りの返事が返ってこない

天気が悪くて田んぼの作業が出来ない

これはみんな苦るしいことでしょう 腹が立ったりします。


なぜ腹が立って苦しい状態になるかと言うと

我執(がしゅう)があるからです

自分中心の考えだからです。


仏教の最終目標は 仏になる事です。

仏とは 覚者(かくしゃ)つまり 覚りを開いたものの事です。

我執を捨てきれた時 覚者になったと言えます。


雨が降ったら 雨やな~って思ったらよいのに

なんでこんな時に雨が降るんだろうって腹立ててもしょうがないでしょう

嫁さんが思い通りの返事をしなくても嫁さんの考えがあるのだから

それはそれで仕方ないでしょう


我執を完全に捨てきれないから 一切皆苦なんですね

自分を中心にした考えであると言う事に気づいていくことで

苦しみを取り除いていく事が出来る (抜苦与楽)

これを教えてくれているのが 一切皆苦 だと思うのですが・・・


仏様は男か女か 

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またまたややこしい事を書いてます。

家の仏壇やお寺の仏像を見て 考えた事ないですか?

仏様は 男か 女か?


答えは 男でも女でもありません

ニューハーフでもありません


各家庭でもお寺でも仏壇の前に座ると

須弥壇と言って仏様が安置されてる場所が

ちょうど頭の高さになるようになってます。

つまり 仏さまの足元に頭をこすりつけてるようなものです

それほど 尊いと言う事ですね。

つまり 人間の延長ではないと言う事ですよ。


仏さまのほんとの姿は 

色もなく形もなく名前もないのです


では 何なんですか?


ピタゴラスの法則と言うのがありますね

直角三角形の斜辺の長さは 

他の2辺の二乗を足したものの平方根である

だったですね


この法則は 地球上どこに行っても同じです

宇宙の果てでも同じでしょう

また 百万年前も百万年後もおなじでしょう

ピタゴラスが発明したのでなく 発見したものです


お釈迦さまが発見された 法(ダルマ 真理)が

法身仏と言われるもの

つまり 法 そのものが仏さまのほんとの姿なんです。


色もなく形もなく名前もない 法身仏

我々には理解しがたいです

それで形になって現れたのが 報身仏と言って

あの仏像なんです。


だから 男でも女でもないんですね。






絶体絶命の話し 

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農閑期に入ってきて少し余裕が出来てきました

またちょこっとづつ仏教の話も書いていきます。


昔 インドのある国では犯罪者を死刑にする時

ゾウに踏み殺させていたんです。

このゾウが逃げ出したんですね

草原を一人の旅人が歩いていましたが

逃げ出したゾウに物凄い勢いで追いかけられました。

人間を踏み殺すように仕込まれてるから大変です。

草原だから隠れるところもなく ひたすら走ってると

古井戸なのか穴があいているのを見つけました。

穴の入口から藤のツルが下に垂れています

これをつたって下へ逃げ込みました。

これで一安心だと思って横を見ると

4匹の毒蛇が舌を出しながらこちらを狙っています。

もっと下へ逃げようと穴の底を見ると

大きな大蛇が口を開いて待っています。

これはだめだと思って上をみると

先ほどのゾウが足踏みしながら牙を振っています。

そして藤ヅルを白と黒の2匹のネズミがかじってるんです。

もうあかん 絶体絶命

その時 藤ヅルの根元に蜜蜂の巣がありまして

そこから蜜が落ちてきて 旅人の口に入ったんです。

その甘さに恐怖も忘れてもっと飲みたいと思ったとか


これが今の人間の姿なんですよ

旅人は    自分自身

ゾウは    毎日過ぎてゆく時間

井戸は    人生

藤ヅルは   命

大蛇は    死の世界

4匹の毒蛇は 肉体を構成する要素(地 水 火 風)

白黒のネズミ 昼と夜

蜜      欲望 よこしまな思い


これらを表しています。

考えてみれば人は何年先か何十年先かは分かりませんけど

みんな必ず死んでいくのですから 絶体絶命の運命なのです 


でも今の欲望を満たそうとしている

生活 家族 人づきあい お金 etc

それらの事に一喜一憂して人生を送っています。


もっと根本的な事に気づかされるお話でした。

仏教と稲作 

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田んぼの横で合掌したら豊作になった

なんて話じゃないんですよ。


明治時代の話しですが 京都の大学の教授を集めて

研修会が行われた時の事です。

講師に禅宗の高僧が呼ばれたそうで、その時のお話です。


このお坊さん えらい教授たちに質問しました。

「大きな池があります。そこで二人の女性が溺れています。

一人は自分の母親 もう一人は自分の嫁です。

さて あなたならどちらから助けますか?」


当ブログ読者の方 どちらを助けます?


さあ、会場はどよめきました。

近代的な考えの教授は 嫁を助けると言い

古風な考えの人は母親を助けると言い

答えはいつまでたっても出てこないので

逆に お坊さんに向かって あなたはどんな考えですか?

って質問したんですね。


そしたら このお坊さん このように答えました。


「私なら 近いほうから助けます」  ってね。


仏教の教えの根底にあるのは 我執を捨てる事です。

この場合 どちらが自分にとって大事であるかとか

必要であるかなんて事じゃなく 

助けやすいほうから 助ける 当たり前の事だけど

気づいてない事が多いんですね。


この自己中心的な考えを捨てていくと

イネ作りでも ほんとの稲の気持ちが分かってくると思います。

天気が悪い 肥料が悪い 機械が悪い

自分以外に原因を押し付けないで 根本的に稲のレスポンスを見ながら

進めていけるようになりたいものですね。

唐獅子牡丹の話 

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今日は農業を離れてありがたい話

年末 深夜番組で映画は見ますか?

任侠映画 背中で泣いてる唐獅子牡丹 なんて見てないですかね・・


唐獅子牡丹 実は我々浄土真宗の本山 本願寺に有ったんです。

阿弥陀様の祭られてる須弥壇を支えている動物の彫り物に

唐獅子が彫られています。

唐の時代に中国から伝わったので唐獅子と呼ばれていますが

実はライオンの事です。


牡丹は本願寺の欄間にずらりと彫られています。

なぜ お寺に唐獅子牡丹なんでしょう・・?


百獣の王ライオンは自分より強い動物が居ないので殺される事がないはず

でも 一つだけあったんです。

それは 腹の中に居る虫によって中から食い殺されて行くんですね。

獅子身中の虫 こんなことわざを聞いたことありませんか?

信頼していたものから裏切られる事です。


この腹の中の虫を退治するただひとつの解毒剤が牡丹です。

牡丹の下で寝てしずくを浴びたり牡丹の花を食べたりして

虫を駆除してたんですね。


では お寺の唐獅子牡丹はどういう意味でしょう

百獣の王ライオンよりも強いのが人間です

人間も腹の中から食い殺される事があるんです。

それは 煩悩という虫の依ってです。

この煩悩を消すことができるただ一つの解毒剤

それが仏教(我々の所では南無阿弥陀仏)だったんですね。


来月 1月12日に本山にお参りする予定ですので

はっきりとこの目で確かめてきます。





腹の立つときゃ 

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今回は宗教の話です。

だいぶ前にお寺の研修会でいただいた小冊子に

「腹の立つときゃ」という題名のがありました。


この中に 因幡の源左さんの話が出てきます。

今年の春に村の人を連れて鳥取までお参りに行ってきました。

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この源左さんは 篤信の浄土真宗の信者で妙好人と呼ばれています。


本の中に出てくる源佐さんの話を思い出して書いてみます。


鳥取県青谷町に住んでおられましたが ある日の事

村で久しぶりに一杯会をやろうと言う話が持ち上がりました。

飲み会をやるのは賛成だけど 酒の肴はイワシでも焼こうと言う事になり

誰が焼くかとなると だれも自分からやると言う人がなかったんですね。

それで人のいい源左さんに頼むことになり 二つ返事で引き受けてくれたそうです。


朝から源左さんがイワシと焼いていると 気になる人が見に来たそうで

「源左さん イワシと言えども魚には違いない オカシラ付きで焼いて下さいよ」

一人の人が言うと はいはい分かりました。

もう一人来て 「イワシは頭があると食べにくいので 頭を取って焼いて下さいよ」

この人にも 源左さんは はいはい分かりましたと答えたそうで。


さて 夕方 村人が集まり一杯会がはじまりました

皿の上には 2匹のイワシが乗っています

一つは頭があって もうひとつは頭なしです。

これを見てみんな話が盛り上がり 楽しく飲み会が出来たそうです。


普通の人だと 「人に魚を焼かせておいて 焼き方まで指図する」

って腹が立つものです。

別にイワシに頭があってもなかってもどうという事もないのに

人に言われると腹が立つものです。

 
他力の信心に目覚めた人は ここが違うんですね。

自己中心的考え方 中途半端なプライド これがなくなって行くほど

腹が立つのもおさまって 楽しい人生が送れそうです。


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